ビフォーアフター

ちん婆

2011年06月10日 11:25

お久しぶりです m(_ _)m

ちん婆です。

(↑商店街の人に描いてもらったイメージ:似てますか? って、似てますねw )

最後の更新が4月12日ですから、

約2ヶ月になります(汗)

あ、

別にナイーブになっていた訳ではなく、

単に忙しかったのと、

ネット回線の引っ越しに時間がかかっているワケで…
(ネタが無いのと、モブログが面倒くさいのは内緒)

現時点でまだ自宅(現在の潜伏先)にネットが繋がっていないので、

↑の似顔絵を描いてくれた

ご近所の呉服店「かめ七」さん提供の、通称"ネットかめ"を利用させて頂き、

今回、久しぶりの更新が出来るようになりました。アザッス!

(無料で店舗の二階をネットカフェとして解放しています♪)



無職になって早3ヶ月…

にしても、

震災前よりもやたらに忙しいのはナンデ?(爆)


いろいろと落ち着いて来たので、

"あの日"の「石巻」(ってか自分)を振り返り、

一つの節目をつけたいと思います。

ついでに写真で綴る"その後"の「石巻」も。


お時間ある方、ちと長いですが、

↓"続きを読む"からドゾッ






かろうじて、

人の住んでいる地域のがれき撤去は、滞り無く進んでいるように見えます。
↓ビフォー(直後)

↓ビフォー(翌日)


↓アフター




↓ビフォー
 
↓アフター

(大王:ターワンは移転しましたが、営業を再開しています!)


しかしその反面、

家屋自体がなくなってしまった地域では、

今もなお、

"あの時"の光景が広がったまま…

(クリックするとちょっと大きくなります:北上川河口付近)



(焼失した門脇小学校を望む)


油断していると、

フラッシュバックしてしまいそうな、そんな感覚に襲われてしまいます。




平成23年3月11日のあの日...

奇しくも、

この日は宇宙人2号の誕生日。

地震後、迎えにいった小学校で、

「なんで私の誕生日に地震が来るの!(怒)」

と、のたまう宇宙人2号に、

「つーか、絶対忘れない日になったじゃんよw」

などと冗談を飛ばしていた数十分後、

あんな津波が来るなんて…(マウスオーバーになってます)














(S6店内:写真の下側、震災当日にwishさんから届いた"せんべい汁"が流されずに♪)




伊達直人と聞いて、

誰も菅直人を想像しないように、

大津波警報だと聞いても、

まさかこんな桁外れな津波が来るとは想像出来ませんよね?


完全にナメてました。

「チリ地震津波の時は、この辺りは足首ぐらいしか水が来なかったから大丈夫 v」
なんて、
なんら根拠の無い確信を持っていたがために、
亡くなったご老人も多かったようです。

かく言う私も、

「どうせいつもの数十センチでしょ?」
なんて、
なんら根拠の無いオオカミ少年だなとタカをくくって、
余裕をブッこいてました。

後で聞いた話ですが、

防災無線の最後の方では、

「高台に避難してください」

では無く、

「高いところに逃げろ!!」

だったそうです。


その頃、

私は宇宙人達を実家に預け、

知り合いのおばあさんの安否確認に出かけました。

帰り道、自宅まであと数百mのところで、

初めて津波襲来の事を知ります。

それでも私は、

「ちょと濡れれば行けそうなんだけどなぁ」と、

全く状況を理解していません。
(この時チラ見した津波は膝下ぐらいのものでしたが、
結果的に2mの津波が押し寄せて来て...)

結局、近所の人達から「逃げろ!逃げろ!」と絆されて高台に向かいます。

この時、

道路を横向きになった車が"サーッ"と流されていくのを遠目に見て、

初めて「ヤバい」と感じましたほどです。


程なくしてハニーからメールが届き、

宇宙人3号とS6の2階(自宅)に避難したと安否の確認が出来ました。

と、同時にあり得ない写メが…

(S6の二階より)


おまけで動画もドーゾ↑
(音も無く水が流れ込んでくる様は不気味です)



あとは実家の様子が気にかかります。

今は自宅に行けないと判断して、

実家に向かいました。

瓦礫を乗り越え、





人ん家の庭をなんとか通り抜けて飛び込んできたのがこの写真。








水が一旦引いた後とはいえ、

ある意味、

もう少し早く着いていたらたどり着けなかったかも知れません。



実家は、

一階は車庫、二階が住まいになっています。

二階に上がる階段には血痕があり、

ヤバい…こりゃ誰か怪我したなと思いながら二階に上がると、

宇宙人達が服を着たまま風呂に入っていました。

「えっ!? お 前 ら 何 や っ て ん の ? ?」

その傍らでは私の母親がぐったりして...

怪我したのはママちゃん(母親の事)か?と、

宇宙人達に聞いても放心状態で会話になりません。


何があったんだ?


状況を聞こうと私の親父を探すと、居間でたき火を始めていました。


「な ん で 部 屋 ん 中 で 火 ぃ 焚 い て ん の ? ?」

「寒 み ぃ か ら だ よ…」

「だっ、かっ、らっ!、 な ん で 寒 ぃ ん だ よ ?」


二階に避難しているものばかりと思い込んでいた私には、

親父との話の内容が全く噛み合いません。


聞けば、

逃げようと、玄関を出たところで津波がやって来たそうです。

で、

"2階に逃げろ!"と、なる訳ですが、

その直前に母親は玄関のドアに鍵をかけてしまい、上手く開けれなくて…

そうこうしている内に水が車庫に入り込み、

その場にいた4人は車庫の中で流されたそうです。

「ママちゃんが流されないように掴んでくれて、
 ランドセルを背負ってなければ溺れていた」
 (ラフジャケットのように浮いてくれたの意)

1号は振り返ります。



話は理解しましたが、

もうすぐ夜が迫ってきます。

当然のようにライフラインは止まったままですから、

なんとかしなければ。


必要なのは明かりと暖のとれるもの。

部屋の中でたき火を続ける訳にもいくまいて…

さて、さて...

ん!?

ってか、俺ってキャンパーじゃん

私の灰色の脳細胞が記憶の扉を片っ端から開き、

階下の車庫に保管しているキャンプ道具の置き場所を思い出させました。

イグルーの後だったので、

冬装備をまとめて仕舞ってあるはず。

が…




奇跡的にランタンとレインボー、

コールマンのシングルバーナー、

遠赤アタッチメントの回収に成功。

これでなんとか夜をやり過ごす事が出来そう…


なんて思っていると、

私の携帯の呼び出しが鳴ります。

電話が繋がりにくい状態なのに…誰? しかもこんな時に…

せのきんさんでした w


せ「大丈夫ですかぁ?」

私「大丈夫じゃないです」


にしてもあの時の電話、

泣きそうになりつつも、勇気をもらいましたね。アリガト~ (>_<)v


さてさてその後、

健康マニアの親父のおかげで、

飲み水(体にいい温泉水だそうです)は十分備蓄していましたから、

その水をバーナーで沸かしてペットボトルに入れ、

湯たんぽ代わりにして母親を暖めます。

母は、

意識はありますが、

依然、もうろうとした状態が続いています。

しかし、母は強し。

「湯たんぽって無かったっけ?」

と親父と話をしていると、

寝ている母親が、

「どこそこの棚の上に仕舞ってあるから…」

と、うわ言を。(湯たんぽは言われた通りの場所にありました。スゲー)

でも、やはりもうろうとしているのは変わらず、


母「寒いから電気毛布を持って来て…」

私「い、いや、かぁ~ちゃん、今、地震で電気止まってるからさ…(汗)」

母「どこどこの戸棚にお菓子があるから、子供達(孫)に食べさせなさい...」

私「そんな事、今、気にしてんんじゃねぇ〜よ(滝汗)」


そんな会話をしたのを覚えています。




"早い段階に病院へ連れて行った方がいい"


ですが、

この状況ではどこへも連れ出せません。


地元のラジオ局の自家発電が切れてから情報は何も入ってこなくなり、

キー局の放送ではなぜか石巻について触れていません...
(仙台若林区→東松島→女川→南三陸町…何で石巻飛ばしてんの!?)

その内に携帯も圏外になりました。
(基地局のバッテリーが底をついたそうです)


真夜中、

水が引いた頃合いを見計らい、

ハニーと3号を回収しに自宅に向かいました。

でも、

通りの向かいに行きたいのに、

瓦礫が邪魔をして通れず、

「この先には行けそうにない…(タッタッタッ)」なんて、

まるでバイオハザード(ゲームのね)の主人公にでもなった気分でしたし、

道で人に会う度に、
やれ、
「どっから来たの?」「どこまで行けますか?」
「どこどこには行けない」「あっちはは火災が酷くて…」
とか、
「そこから先は通れないケド、あっちを迂回すれば行けるよ」
「ってか、危ないからウロウロするなって!」

などと情報交換を繰り返すリアルなドラクエ状態。

途中で出会った消防団と思わしき一団に、

「ケガ人がいるんだけど、助けを呼べないか?(郊外にある日赤病院まで)」

と聞くと、

石巻を取り囲むように通じているJR仙石線と石巻線を境に、

「首まで水没して水が引いていない」
「救急や消防はおろか、誰も来れないし、誰も行けない」
「無線もやられて、我々もどうしていいのか分からない...」

「マジですか!?」


(石巻駅前周辺:震災から三日後 マウスオーバーになってます)


(同日:石巻市役所二階から)


歩けば5分のS6に、

30分かけてなんとかたどり着き、二人を無事にピックアップ。

その帰り道、

ふと空を見ると、

キャンプ場でも見た事の無い満点の星空が広がっていました。

あれは印象深かったですねぇ。

最高の夜空と最悪の汚泥瓦礫のギャップに萌ながらも、

あそこまで星が奇麗に見えるなんて思いもよりませんでしたし、

いかに我々が明るい場所に住んでいたのかを思い知らされた夜でした。



朝。

トイレに行きたいと言い出した母の体を起こすと、

部屋とトイレの気温変化で心肺停止状態に陥ります。

親父と私でうる覚えの心肺蘇生術を施して事なきを得ますが、

一刻も早く医者に見せなくてはいけない状態になりました。

とりあえず、

助けを呼ぼうと外に出てウロウロしていると、

近所(歩いて5分:通常)の病院に人影をハケーン!

中に入ろうとしましたが泥だらけの瓦礫が邪魔をして行く手を阻みます。




病院ですらこの状態ですから、大きな期待は出来ませんが、

家にいるよりはよっぽどマシです。

なんとか侵入に成功し、

看護士さんを捕まえて状況を説明します。

看護士さん曰く、

「この状況なので最低限の治療しか出来ませんが、よろしいですか?」
(器具も薬もすべて流され、入院患者を避難させるだけで精一杯の状況だったようです)

「まずは自宅に伺いましょう」

と、言ってくれた看護士さんを連れ立って、

実家に向かうと、

あれれ?

近所の方や小学校の先生達がウチの母親を運び、

こちらに向かってくるではありませんか!

なんとタイムリー♪

いや、

そもそも連絡もしていないのに(既に携帯は使えなくなってますので)なんで?

私「なんで知ってんの?」

皆「なんで看護士さん連れてんの?」

互いに軽いパニック。

聞けば私が出かけた後に二度目の心肺停止状態になり、

向かいに住む方の情報で私が行った病院とは違う病院に運び込もうとしていたそうです。

そこへたまたま私が看護士さんを連れ立って現れたものですから、

互いに「なんで?」となった訳ですね。


その場で簡単なバイタルを測り、

歩いて5分(通常)の病院に連れて行く事になりました。

しかし、

足場は悪く、瓦礫が散乱している道筋を通らなければなりません。

それに、

担架なんてありませんから、

津波でどこからか流され来た"畳"を担架代わりにするしかありません。

いや、

今思えば他にも良い方法があったはずですが、

必死だったので思いつきませんでした。

その上その畳は、

水を大量に吸って重く"凍って"いるではありませんか(泣)


その冷たくて重い"担架"を使い、

沢山の人に手伝ってもらい、

やっとの思いで母を病院に運び、

院内の瓦礫をどかし、

朝日の差し込む病室に搬入する事が出来ました。


あの時の自然な流れでの連係プレーは忘れる事が出来ません。



病院では、

医師、看護士さんらが付きっきりで"最大限"の治療をしてもらい、

病状も安定し、まずは一安心。

家にいた時よりはだいぶ良くなったと思っていたんですが...


病院のスタッフの方々も、

外部や家族と連絡が取れない状況で、

にもかかわらず、入院患者や母の世話を粛々とこなし、

職務を全うしている姿には、今思い出しても頭が下がります。




結局、
母はあの泥水を大量に飲んでしまったのと、
低体温症からくる内蔵機能低下、腸閉塞を併発してその夜に亡くなりました。
怪我を負い、出血が止まらなかったのも良くかったのでしょう。
暖めれば出血が始まり、かといって暖めないワケにはいかず…

もっと何か出来る事があったのではないか?
あの時ああしていれば、とか、
もしも…とか。

やった後悔より、やらなかった後悔の方が大きい...
誰の言葉か失念しましたが、
ふとした時に思い出してしまいます。

唯一の救いは、
伴侶である親父に看取られながら、
うっすらと微笑んでみえる表情で旅立って逝った事でしょうか。


未だご遺体も見つからない方々も多くいる中、
私の母親、家族もそういった意味ではラッキーだったのかも知れません。



自衛隊が市街地に入ってきたのは、震災の日から4日後の朝でした。
朝日に照らされる自衛隊のイカツイ軽装甲車両を見つけた時、
嬉しさと安堵感で涙が出そうになったのは内緒ですよ




こうして見ると、
今回の震災で生と死を分けたのは、ほんのチョットの差だったように思えます。
ラッキーとアンラッキーの狭間で、
皆それぞれに九死に一生のドラマがあり、
ともすれば、
母のようにチョットのタイミングで命を落とす事もあり得る訳です。


例えば、
" 家 族 全 員 を 失 っ た か も 知 れ な い "

正直、
それを想像すると今でも怖くなりますし、
ときに、サバイバーズギルドに苛まれる時もありました。
実際に、
それが現実のものとなってしまった友人もいます。





あれから3ヶ月。


生き残った者、
いや、
生かされた者が、
ここで立ち止まる訳には…いかないですよね?

それは、

「がんばれ」と言う意味ではありません。

むしろ、

「がんばるな」に近い意味です。



今は上手く言葉には出来ないんですが、

例えば、自転車って漕がないと倒れますよね?

でも、

バランスさえとっていれば、

スピードをそんなに出さなくても倒れないじゃないですか!

なんて言うか、そんな感じです(笑)



震災後、

被災地にはボランティアをはじめに様々な形での復興支援を頂いております。

個人的にも、

ブロガーの皆様、友人、S6アルバイターの面々、親類縁者の方々から、

たくさんのご支援とご声援を頂戴いたしました。

そんな中、

震災で失ったものも多々ありますが、

目には見えない形で得た事の多さにも気付かされます。


衰退の一途を辿っていた地元経済ですが、

ある意味において"強制リセット"された状態により、

新しい街づくりが展開されようとしていますし、

前向きな有志達が内外(海外からも!)から集まり、

復興支援の枠を超えた新しい石巻のビジョンも提示されつつあります。


想像しただけでワクワクする街並みに変化していくであろう石巻の様子には、

これから目を離せませんよ!
(もっとも、この情熱が数年で冷めない事を願うばかりですが…汗)

そんな訳で、

微力ですが石巻ウォッチャーとして情報を発信していこうかと。



私、個人的にも新たな人生の転機を迎えようとしています。

今までの生活が"強制リセット"されたお陰で、

震災前のただ漠然と、混沌と過ごしていた日常が劇的に変わり始めています。


先が見えない不安よりも、

先が見えないからこそワクワクする感覚...

言うなれば、「 希望があるという希望 」でしょうか。

ま、

この話は次の機会に(笑)




長くなりましたが、
ここまで読んで頂きありがとうございました m(_ _)m


今回の記事を書く事で、
自分の中で一区切りつく事が出来きた。と、思っています。


っと、
あらためまして、
『 ようこそ! ヘン○イと言う名のブログ、 new Wish FIELD へ』
(どさくさまぎれにタイトルを変えました。気付いてた?w )


次回の new Wish FIELD
「お前はこの3ヶ月間何をしてきたのか?」
の予定です。


お楽しみに♪
(一応キャンプ絡み…かなw)


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